2012年01月16日

ふきのとう文庫創設者 小林静江さん

ふきのとう文庫創設者の小林静江さんが、今北海道新聞夕刊の「私のなかの歴史」で1月11日より「障害児に読書の喜びを」で登場しています。

「ふきのとう文庫」続いていますが、カムイミンタラでも特集(1987年5月号 通巻20号)で取り上げています。地道な子どもたちへの努力が継続され広がっていることを、道新で確認できることはうれしいことです。静江さんの生い立ちと社会人としての生活、結婚と子ども文庫への歩みが5回まででも、かってなく読みやすい形で発表の場を与えられました。

なお、支え手の一人であった故・小林金三さんは、1985年11月号で随想寄稿者として、また2005年5月号特集「創成川ルネサンス」に創成川を市民のものへの活動に活動に携わる人として、登場しています。

2012年1月16日 室長

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2011年10月11日

おすすめします 稲葉圭昭「恥さらし」

10月に「恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白」が講談社より出版されました。著者は、稲葉圭昭(いなば・よしあき)氏、北海道警察銃器対策課・元警部です。本人はこの2011年9月23日、懲役9年の刑期を終えました(2010年6月に仮出所)。2003年4月に有罪となり服役の身でした。現職警官でありながら、覚醒剤の使用、営利目的所持、銃刀法違反の罪を問われてです。

「恥さらし」は、稲葉氏の警察官人生のはじまりから、転落、そして逮捕有罪服役の歩みが、本人によって語られています。北海道警察(道警)の「銃器対策課のエース」と呼ばれたこともあった彼が、どうして悪徳警官となってしまったのか、重い現実です。

暴力団対応の警察と警察官の活動の困難さ、難しさが、よくわかる内容です。真剣に取り組んだものの、道を踏み外してしまった人間の反省と自戒が、淡々と語られています。また組織の間違った方針がどれほど、第一線の活動をゆがめるものであるかの、問題提起の書にもなっています。

かっての上司でもあった原田宏二氏(市民の目フォーラム代表)が「稲葉佳昭と私」と題して解説を寄稿して最後に載っています。原田氏が刑務所の稲葉氏に送った手紙に対し、稲葉氏が自らの罪の償いの意味で「その意味で日記(回想録)というのも一つの手段と思います」と返事があったそうです。その言葉の実現が今回の本と原田氏はとらえました。

原田氏は2004年2月道警の裏金告発を行いました。そのきっかけのひとつに、とかげの尻尾の切捨てのような稲葉氏への道警の対応への怒りももあったそうです。原田氏登場のテレビ番組を稲葉氏は千葉刑務所で見たそうです。ウェブマガジン カムイミンタラ 2005年11月号(通巻126号)特集「草の根の声を知事と道議会に」で、当時の原田氏たちの裏金解明への努力を取り上げています。


皮切りの原田宏二氏、続いた斉藤邦雄氏はそれぞれ「たたかう警官」(現ハルキ文庫 最初の書名は「警察内部告発者」)、「くにおの警察官人生」(共同文化社)を機会あって出版、自らの声をまわりに届けました。「恥さらし」はそれにつづくものとなりました。それぞれの立場状況にあっての腐敗不正を許さないという姿勢、3著で多面的多角的に理解できるのではないでしょうか。

稲葉氏は終章で以下のようにしめくくっています。
「最後になりましたが、これまで述べてきた私の罪について関係者をはじめ、国民の皆様に深くお詫び申し上げます。そして道警銃器対策課が行ったさまざまな違法捜査について、今になっても一切その責任を認めようとしない道警組織や幹部たちに代わり、深謝します。
そして、私の社会復帰を応援してくれた方々には心から謝意を申し上げたい。高校の同級生や大学の柔道部の仲間たちには服役中も出所後の今も、多大な支援をいただいています。
また拘置所、刑務所で私を気にかけ、いつも声を掛けてくださった刑務間の方々は、私に立ち直るきっかけを与えてくれました。仮出所から刑期満了日までの1年3ヶ月の間、日々の生活から仕事面にいたるまで、さまざまなアドバイスをいただいた保護監察官、保護司の先生方にも、心から感謝しています。
何よりも刑務所で服役していた8年間、このような私を待っていてくれた家族には頭も上がりません。
私を支えてくださったすべての方々に、心より感謝いたします。」

稲葉佳昭さん、これからの一歩一歩しっかり歩んでください。また今回の真摯な問いかけは、多くの人に届くこと間違いないでしょう。この世の中、捨てたものばかりではないのですから。日本の警察の仕組みもありかたも問い直されていることは間違いないようです。

2011年10月11日 室長


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2011年09月29日

「私たちはヒバクシャになりました」

9月19日東京で「さようなら原発」集会が開催され、6万人以上が参加したそうです。

呼びかけ人の大江健三郎さんをはじめ多くの方のスピーチがありました。各種報道、動画などで紹介されています。

そのなかで福島のハイロアクションの武藤類子さんのスピーチもあります。その内容が心をうつもので注目されています。私も読みましたが、そのなかの一文に「3.11・原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャになりました」とありました。

ヒロシマ、ナガサキに続きフクシマでも「ヒバクシャ(被爆者)」がでてしまいました。当の福島の人が、それを語っているのです。ハイロアクションは2010年10月に結成された、建設40年となる東電福島原子力発電所第1号炉を廃炉にさせようと、声をあげた地元の人による団体です。そのホームページに武藤さんのスピーチ「ふくしまの想いを、ひとりでも多くの方に、伝えたい」の全文がのっています。ぜひお読みいただくべき内容と受け止めました。こんなにひどい仕打ちを受けながら、武藤さんは「私たちひとりひとりの、背負っていかなくてはならない荷物が途方もなく重く、道のりがどんなに過酷であっても、目をそらさずに支えあい、軽やかにほがらかに生き延びていきましょう」としめくくっています。

カムイミンタラ第94号(1999年9月号)に北海道被爆者協会会長の越智晴子さんが「友はよきもの」と題した随想を寄せています。神戸大空襲と広島での原爆被爆の体験をお持ちの越智さん、生き抜いてきた道のりをふりかえり、支えてくれる人のありがたさすばらしさを、静かに語っています。

2011年9月29日 室長

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2011年08月06日

おすすめします「母の語る小林多喜二」

「母の語る小林多喜二」(小林セキ述、小林廣編、荻野富士夫解説 新日本出版社)が7月に出版されました。

地元小樽で小林セキさんとも親しかった小林廣氏が、セキさんからの聞き書きをまとめ、出版の意向を持っていました。戦後まもなくのことです。しかし出版にいたらず、その原稿が長らく埋もれていたのでした。多喜二の研究家でもある小樽商大教授荻野富士夫氏が、再発見、関係者の遺族にも了解をとり、60年余の年月を経て初めて出版されました。

荻野氏の解説は懇切なもので、口述内容や編者の努力などに触れ、理解を助けてくれます。荻野氏にとっても感慨深い出版への協力となったのではないでしょうか。また荻野氏は「小林多喜二の手紙」(岩波文庫)の編者であり、今回の「母の語る小林多喜二」で多喜二像をさらに掘り下げてくれました。

小林セキさんは、私にはふたつの言葉で印象に残っている人です。特高による拷問死となった多喜二の遺体と対面した時の言葉、「それ、もう一度立たねか、みんなのためにもう一度立たねか」がそのひとつです。もおうひとつは、書き残した言葉、「ああ、またこの2月が来た。本当にこの2月という月が嫌な月、声を一杯に泣きたい どこへいっても泣かれない。ああ でもラジオで少し助かる ああ涙がでる めがねがくもる」(原文はほどんどかながき)でした。

戦前のプロレタリア作家小林多喜二は、近年になって、三浦綾子の小説「母」、ノーマ・フィールドの多喜二研究、荻野富士夫の「小林多喜二の手紙」などで、人間像も含めて新たな陽を当てられてきました。それもあってか彼の「蟹工船」が近年ベストセラーとなりました。

「母の語る小林多喜二」は、人間らしい多喜二と、多喜二の行動を見守った母親とを、改めて伝えてくれるものとなりました。私の一面的な多喜二像、セキ像を豊かにしてくれました。十分とか満足にとかは、とても言えた柄ではありません。でもかなりの具体的なイメージを与えてくれました。

カムイミンタラ2005年9月号(通巻125号)では、特集「多喜二の『未完成性』が問いかけるもの」です。ノーマ・フィールドさんが小林多喜二を語っています。これも目を通していただけると幸いです。

2011年8月6日 UT





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2011年07月15日

映画「赤い夕陽の爺yulie( ジュリー)」

むかわ町の高齢者による映画製作団体「田んぼdeミュージカル委員会」は、2001年から映画監督崔洋一氏の指導を受けながら、地元出演者による映画づくりを続けてきました。現在のメンバー約80人の平均年齢は78歳だそうです。

最新作第4作を完成させたことが北海道新聞7月15日朝刊に報じられました。題は「赤い夕陽の爺yulie(
ジュリー)、14日同町で地元上映会が開かれたそうです。あらすじは「電力利権に揺れる山村の姿をユーモアを交えて描いたもの」とか。残念なことに最終作と銘打っているとか。

カムイミンタラ2005年3月号(通巻122号)特集が、同委員会の映画づくりを取り上げています。1作のこと、2作目のことなどの内容です。今後にも気持ち思いが何らかの形で引き継がれていってほしいものと思いました。

札幌のシアターキノで7月16日から22日まで皮切りの上映となっています。

2011年7月15日 室長




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2011年07月12日

自衛官人権訴訟で静岡地裁浜松支部、自衛官自殺で国に賠償命令

7月11日、静岡地裁浜松支部は、2005年11月にに航空自衛隊浜松基地に勤務していた3等空曹の男性(当時29歳)の遺族が起こした訴訟に対して、訴えを認め国に賠償命令の判決(中野琢郎裁判長)を出しました。判決内容では、「先輩隊員の指導に行き過ぎがあり、自殺との間に因果関係があることは明らか」といじめを認定し、国側の主張「男性の私生活などが原因」とする主張を退けました。

訴えた遺族が、男性の両親と妻だそうです。父親が元自衛官であるそうですから、なおさら重い提起を行ったことになります。息子も自衛隊でがんばってほしいとの気持を持っていた父に違いなかったでしょうから。

カムミンタラ2010年11月号(通巻150号)特集が、「女性自衛官人権訴訟 原告と弁護団の3年3ヶ月」です。その特集のなかに、2010年3月に自衛官人権訴訟の全国弁護団が札幌で結成されたことも報じられており、浜松基地訴訟もそのなかに含まれています。人権侵害という点で、いくもの訴訟が起こされていたのです。

女性自衛官訴訟は、2010年札幌地裁で勝訴確定で終わりました。今回の静岡地裁浜松支部判決、それに続く、人権訴訟の成果といえるかもしれません。無理な引き伸ばしとなるような国側の控訴のないことを願うものです。

2011年7月12日 室長

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2011年06月25日

6月23日は「沖縄県慰霊の日」

例年6月23日は、「沖縄県慰霊の日」です。太平洋戦争における沖縄戦終結の日とされ、沖縄県の人たちにとって大切な日です。

鳥目の会というグループ、会社の了解をとって「沖縄の痛みは日本の痛み 6月23日は沖縄県慰霊の日」との垂れ幕を6月中りんゆう観光社屋に掲げています。

沖縄での北海道の戦死者1万人以上、沖縄県民につぐ多さです。その重みも、しっかり受け止めなければならないようです。

2011年6月25日 室長


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2011年05月27日

十勝の児童詩誌「サイロ」50周年 テレビ放映

1960年に誕生、50周年をむかえる十勝の児童詩誌「サイロ」ですが、このたび5月28日北海道テレビ(HTB)の番組で全道放送されることになりました。北海道新聞(道新)5月25日夕刊で紹介されています。

5月28日午後4時から、「HTBノンフィクション『先生、あのねーー』〜詩集『サイロ』の50年〜」です。

「サイロ」は帯広千秋庵(現六花亭)の企業文化活動の一環ではじまりました。福島県郡山市の同業の菓子店「柏屋」が児童詩誌「青い窓」発行しており、それを当時の小田豊四郎社長が知ったことがきっかけとなりました。表紙には坂本直行さんの絵を登用、十勝管内の教員たちが編集して継続してきました。現在は「NPO法人小田豊四郎記念基金 児童詩誌 サイロの会」が編集発行しています。

カムミンタラの特集で、「サイロ」をとりあげ、紹介したことがあります。以降現在に至るまでの継続努力もたいへんなものがあったでしょう。

東北関東大震災で柏屋さんも影響を受けました。六花亭が道内店舗で柏屋の製品を扱って支援とのことも道新ですでに報じられています。「サイロ」への縁、ひろがりとつながりを持って今に至っているのです。

2011年5月27日 室長

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2011年05月07日

菅首相、中部電力浜岡原発運転停止要請

5月6日、菅直人総理大臣が緊急記者会見を行い、浜岡原子力発電所の運転停止を中部電力に要請しました。現在運転中の原発です。

想定される東海大地震の地域内ど真ん中、しかも活断層の真上という条件が、政府もその決断に踏み切らせたようです。老朽原発でもあり、耐震性がもっとも懸念されるものでした。運転停止を求める声も実に30年前からあり、現在差止訴訟中の原発でした。

川勝静岡県知事は、東北・関東大震災以来、浜岡原発の危険性とその運転停止の意見を持ってきました。7日朝7時のNHKテレビニュースで、ご本人は「大英断に共感する」と発言しています。

とうとうここまで来た、とそれらのニュースを受け止めることになりました。これからさまざまなジグザクあるでしょうが、「脱原発」の流れは動き出したと思いました。

カムイミンタラを「原発」で検索したところ、7つでました。そのうちひとつだけは難病の病名についた「原発性」だらですから、これは違います。他の6個は、原子力発電所の原発です。随想の中、特集の中とさまざまですが、押さえたなかにも注意して見ていかなくてはと言う点では共通していました。原発というものの重みを改めて感じさせられました。

2011年5月7日 室長

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2011年04月23日

旭川市に「氷点橋」

4月1日、旭川市内を流れている忠別川に新しい橋が開通しました。名称は「氷点橋」、そうです故三浦綾子さんの小説「氷点」に通じる名前です。「氷点」はそもそも水が凍る温度をさしています。その意味では北海道に住む私たちにはなじみある言葉です。しかし、旭川は三浦さんの代表作「氷点」の舞台でもあり、三浦さんが生まれから生涯を通して住んだ土地です。

昨年旭川市が2011年と2014年に忠別川に新たにかかる橋の名称を公募し、橋梁名称検討委員会で検討の結果それぞれ「氷点橋」「クリスタル橋」と決まっていました。JR旭川駅をはさむ形で駅周辺の市中心部から神楽地区と結ぶ橋です。

「氷点橋」が今回開通、神楽地区のその先には見本林があり「三浦綾子記念文学館」があります。市内外から見本林や文学館を訪れる人の利便性がはるかに高くなることになりました。まさに名にふさわしい橋ともいえるでしょう。

カムイミンタラでは、三浦綾子さんを特集としてとりあげ、このアーカイブズでも公開、さらに、英語版、ハングル版、中国語(簡体字)版を作成、公開しています。こうした機会にもお目通しいただければ幸いです。

2011年4月23日 室長

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